2005年02月24日

謎解き『イニシエーション・ラブ』 第2章 すり替えのトリック

【追記 2015.5.23.Sat】
映画『イニシエーション・ラブ』観てきました


【警告!】
この下の文は小説『イニシエーション・ラブ』のネタばらし解説です!
『イニシエーション・ラブ』を読んだことのある人以外は、この下の記事を読むのは絶対にやめましょう!
かなりの長文なので、文字反転などのテクニックも使っていません!















【目次】
  序章  時系列データ
  第1章 時制のトリック
  第2章 すり替えのトリック
  第3章 交錯ポイントと心理の動き
  第4章 暗示と象徴
  第5章 「静岡ローカル小説」としての『イニシエーション・ラブ』
  第6章 おまけ


第2章 すり替えのトリック
A面の「僕」は鈴木夕樹。B面の「僕(俺)」は鈴木辰也という別人物。

この小説は最終ページの「……何考えてるの、辰也?」というセリフから、A面とB面が別人物であることに気づかせ⇒そういえばなんかキャラに違和感があった⇒じゃあなに、A面とB面は別の話?⇒あっ、A面とB面は続きじゃなくて同時進行だ!⇒マユは二股かけてたってこと?⇒やられた!という形で、ドミノ倒し式に謎が解けていく構造を持っています。そういう意味ではこの「すり替え」こそが、最大のトリックと言えますね。

2−1)名前
すり替えが行われる上で重要なのが、もちろん名前。「鈴木」という日本に多い名字をチョイスしたところからすでにトリックが始まっています。

そして愛称の「たっくん」。マユは夕樹との2回目のデートでこう言います。

「ユウキってたしか、夕方の夕に樹木の樹って書くんだよね?」と成岡さんが聞いてくる。あ、ちゃんと憶えていてくれたんだ、と嬉しく思いながら僕が頷くと、
「じゃあさ、夕方の夕って、カタカナのタと同じに見えるじゃない? だからタキで──たっくんっていうのはどう?」(A面70ページ14行目)

いくらなんでも、無理のある愛称の付け方じゃあ……?と思った人も多いでしょうね。これは、二股をかける相手の愛称を一緒にしてしまうことで、失敗を防ぐというマユの作戦だったわけです。実際同じように二股をかけていた辰也は、

僕はマユに何かを言おうとしていた。そして気がついたときには、「なあ、おい、美弥子」と言ってしまっていたのだ。(B面245ページ15行目)

という大失敗を犯し、これが破局につながっています。
遠距離恋愛中は、電話を受けることが極端に多いものです。どちらからの電話かはっきりしなくても、とりあえず「あ、たっくん?」と言っておけば安心な状況を作ったマユ。それを念頭において、完全破局後に辰也がマユにかけた間違い電話のシーンを見てみましょう。少し長く引用します。

二度目のコール音の後、受話器が外れる音がして、
「──はい。成岡です」というマユの声を聞いたときには、僕はいっぺんで酔いが醒めていた。頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。
「──もしもし? ……たっくん?」
 という声を聞いたところで、僕は慌てて受話器を置いた。
 怖かった。
「たっくん?」と言ったときのマユの口調があまりにも普通だったからだ。
 まさか……たっくんから? ──という感じで言うのならばわかる。あるいは──たっくんからであってほしい──と祈るような感じで言ったのであれば。
 しかし今の口調は、僕が毎日のように電話を掛けていた、あのころのようで──電話が鳴ったから、たぶんたっくんだろうと思って出る──しかし相手が黙ったままだ──たっくん……でしょ?──といった感覚の中で自然に出てきた言葉のように思えたのだ。
 彼女の中で僕と別れたことが──そしてこの一ヶ月余りの間、一度も連絡をしていないことが──正しく認識されていないのだとしたら……。
 その想像は、あまりにも不気味だった。そして同時に、もしそれが本当だとしたら、マユがあまりにも哀れだと思った。
 脇の下を汗が流れているのがわかった。と同時に眩暈を感じて、僕はその場に蹲った。(B面257ページ15行目)

……おびえまくっている辰也のほうが「哀れ」ですね。声の様子から感じ取ったことが正鵠を射ているところが、かえって哀れさを増幅させます。この時のマユは、夕樹とのクリスマスイブの予定にうきうきしている頃。少なくともこの作戦に関しては、マユのほうが辰也より完全に一枚上手だったと言えますね。

さて、この小説で「最もわかりやすい」と言われている伏線も、この「たっくん」という愛称に張られています。マユと夕樹の初デートのシーンです。

「──たとえばそのメガネも、もうちょっとオシャレな感じのものに変えるだけで、たいぶ印象って変わると思うし……コンタクトってしたことは? タック──」と言ったところで言葉を詰まらせたので、どうしたのかと思ったら、「タックってわかります?」と真顔で聞かれたので、やや憤慨気味に「僕だってタックぐらいはわかりますよ。こう、布を折り返してズボンとかに入ってる」と答えると、彼女は「そうですよね、ごめんなさい」と言ってクスクスと笑った。(A面61ページ1行目)

メガネ⇒コンタクトの話題から、いきなりズボンのタックの話というのは、いくら「オシャレつながり」としても唐突すぎます。この「タック──」と言葉に詰まったのは、実は「たっくんは……」というように続けそうになって慌てて黙り込んだ、ということですね。マユが「たっくん」の後、どんな言葉を続けるつもりだったのかはわかりませんが、要はこの時、マユも辰也と同じ大失敗をしそうになっていたわけです。

この失敗を教訓として持ち帰って作戦を練り、2回目のデートで夕樹をも「たっくん」と呼ぶようにするあたり、やはりマユは只者ではありません。

2−2)性格
A面の夕樹とB面の辰也では、よく読んでみると性格にかなりの違いがあります。ざっとまとめるならば、夕樹は温和で消極的、辰也はやや傲慢で自分勝手、といったところでしょうか。A面夕樹は終始控えめで謙虚に

渡辺さんは僕に好意を持ってくれている。
どうして成岡さんじゃないんだ……。そんな理不尽なことを思った。女性から好意を寄せられているだけでも、ありがたいと思わなければならない人間のくせに。(A面36ページ13行目)

というような考え方をする男ですが、B面辰也は、

面白いことに僕の企画に難癖をつけるメンバーはたいてい決まっていて、それは自分ではつまらない企画しか立てられない能無しの社員ばかりだった。(B面251ページ4行目)
この冴えない中年男が美弥子に交際を申し込んだのか──と思うと、その身の程知らずな行為が改めて許せないこととして思えてきた。(B面252ページ5行目)

といったことを平気で考える男です。石丸美弥子言うところの「ワイルド」な性格。
改めて読んでみれば、とうてい同一人物とは思えない言動なのですが、読者は

つまりは、もっと精神的に男らしくなってほしいということなのだろうと、僕はそんなふうに彼女の要望を理解していた。二人の関係で言えば、僕のほうが常に彼女をリードするような形で、これからは過ごしていってほしいというような感じで。(A面79ページ14行目)

実際にはむしろ消極的な性格だと、自分では思っているのだが。(B面133ページ17行目)

といったミスリードが頭の隅に残っていますから、「性格が変った、いや、変えていったんだな」という受け入れ方をしてしまうんですね。

B面で時折現れる「俺」という一人称の荒っぽい言葉遣いも、

「だから『僕』って言われるよりも、今みたいに『俺』って言われたほうが、何となく頼もしいっていうのかな? 男らしいって感じがして──」(A面79ページ8行目)

というマユの言葉がミスリードとなっています。

2−3)飲酒
B面の冒頭から読者に違和感を抱かせるものの1つが、辰也の酒乱癖です。

工場研修の時の飲み会のときには、僕自身は覚えていないのだが、どうやら酒に酔って暴れてしまったらしい。(B面133ページ11行目)
飲み会が終わる頃には、身体はかなり酔っていたが、意識は最後まで明晰であり続けた。それも僕にしてはめずらしいことだった。(B面165ページ16行目)

と書かれていますし、酒を飲んだときに海藤とも派手なケンカをしています。酔ってマユを殴った、というのもむべなるかな。
夕樹の方は、酔って暴れたような記述はなく、酒豪とまでは行かなくとも、

「私たちが海に行っていた間もずーっと飲んでましたもんね。」(A面38ページ5行目)

とあるように、そこそこは飲めるクチのようです。また、最初の合コンの時の

飲みすぎたのだろう、実はカラオケ店での記憶がほとんどない。誰とどんな会話を交わしたのか憶えていないし、成岡さんがそこでどんな歌を歌ったのかも憶えていない。ただ楽しかったという印象だけが残っている。(A面22ページ10行目)

という描写を見ると、辰也のような酒乱ではない、いい酔い方をするタイプなのでしょう。
















2−4)ファッション
もう一つ、B面冒頭からの大きな違和感が、ファッションです。

僕は今まで、あまりオシャレには気を遣うことがないまま生きてきた。そういう自覚は少なくともあった。(A面59ページ16ページ)

とオシャレについては、コンプレックスを抱えていたA面の「僕」が、B面では一転して、

他のみんなが新入社員らしくビジネススーツ姿で会社に来ているのに対して、僕は入社式のときからブランドもののソフトスーツを着て来ていたし、(B面133ページ9行目)
「あ、そのスーツ、ドモンじゃないですか?……やっぱりそうだ。オシャレですね。すごい似合ってます。」(B面159ページ17行目)

と会社のファッションリーダー的な存在となっており、あげくの果てには、

「海藤さ、もしモテたいんなら、もうちょっと服装とかに気を遣ったほうがいいぞ。もし何だったら、一緒に買い物に行くか?」
<中略>
海藤も見た目はそんなに悪くない。ファッションにもう少し磨きをかければ、望みどおりに都会の女とも付き合えるだろう。(B面254ページ13行目)

とスタイリスト気取りです。もっともこれにはミスリードがあって、

「あと鈴木さんって、もうちょっとオシャレに気を遣ったほうがいいと思うんです。」(A面59ページ11行目)

というセリフから始まる「マユの彼氏リフォーム計画」の成果か、と読者は考えてしまうんですね。そして終盤、

僕のほうは丸井で買ったブランド製のスーツ姿で、マユほど気合が入っているとは言えないだろうが、まあ初デートのときよりはマシな格好をしていると言えるだろう。我ながらあれはひどかったと思う。それでもよくマユが付き合ってくれたと思う。(A面124ページ12行目)

の「ブランド製のスーツ」が、上述の入社式で着ていった服なのか?と、自分でミスリードの補強をしてしまったりします。

2−5)喫煙とパチンコ
タバコは夕樹とマユを結びつけるアイテムとして、

「あの……タバコ、一本いただけません?」
思わず「え?」と言ってしまった。「タバコ、吸うんですか?」
「仕事場とかでは吸わないんですけど、家で寝る前とかにはいつも。意外ですか?」
「意外です。……あ、どうぞどうぞ」僕は箱を相手に手渡した。(A面38ページ11行目)

などとA面では頻繁にでてきますが、B面になるとぱったり影を潜めます。どうやら、辰也には喫煙の習慣はない模様です。
辰也がマユの喫煙を知っているかどうかはわかりません。非喫煙者の私からすれば、彼女がタバコを吸い始めたり、あるいは誰かが彼女の家でタバコを吸ったりすれば、匂いで簡単にわかると思うのですが。

同じ「時間つぶしの一服」として、辰也が持っている趣味が「パチンコ」です。

A面では「僕」がパチンコをする場面はまったくありませんが、B面の「僕」は、マユの誕生日に彼女の帰宅を待つ間や、彼女が妊娠の検査を受けている最中などに、近所のパチンコ屋で時間をつぶしています。

そんなふうに、ただの時間潰しのつもりで始めたパチンコだったが、思わぬ大当たりが連続して来て、<中略>普通に換金してもらうことにした。(B面149ページ5行目)

私はパチンコに詳しくないのでなんとも言えませんが、ごく最近パチンコを始めた初心者にしては、なかなかの腕前なのではないでしょうか。そして、こういうとき、喫煙者なら出玉の1部をタバコに交換しそうな気がします。

2−6)読書
A面の夕樹が、ミステリーに偏っているとはいえ、かなりの読書家であることは、各所で示されている通りです。

実際に話してみて一番の収穫だと思ったのは、彼女も読書を趣味にしているということだった。(A面55ページ4行目)
部屋に入ってくるなり、彼女は「すごい本の量。図書館みたい」と声をあげた。六畳間の壁一面を埋め尽くす蔵書は、この四年間に僕が買い溜めてきたもので、一千冊近くはあるだろう。(A面119ページ15行目)

しかし、B面の辰也に話が移行すると、

ようやくデパートを出て、外の蒸し暑さにうんざりしながらも、とりあえずこれで帰れると僕が内心でホッとしていたら、マユが「あ、ついでに本屋さんもちょっと見ていきたいな」と言い出して、結局傘を開くことなく隣の吉見書店にも寄る羽目になった。彼女は三十分ほどかけて文庫本を2冊買った。僕はその間、一階の雑誌コーナーで立ち読みをして時間を潰していた。(B面186ページ5行目)

「書店にも寄る羽目になっ」て、「雑誌コーナーで立ち読みをして時間を潰」す、というのは、家に千冊の蔵書があるような人の行動ではありませんね。また、東京に引っ越すことになったとき、アパートや駐車場の解約などについては心配していますが、蔵書の処分については全く触れられていません。「荷造りも──<中略>まあ、なんとかなるだろう。」(B面136ページ13行目)と大変楽観的で、違和感が生じます。ちなみにこの時気にしている引越し荷物は「服」。読書よりファッションに興味がある辰也の嗜好を示しています。

2−7)帰省
B面終盤で辰也が石丸家のクリスマスディナーに招かれたときの会話に、

「じゃあ出身も静岡で?」
「あ、いえ、出身は福井なんです。大学のときに静岡に来て、そのままそこで就職して」(B面260ページ1行目)

というやりとりがあります。静岡県外出身者であるということには軽く触れられていましたが、辰也の故郷が確定する部分です。

A面夕樹の出身がどこなのかについては、確たる記述はありません。静岡県にそこそこ土地勘があるようなので県内出身者っぽいですね。静岡市で一人暮らしをしていることと、鈴木という姓の分布から考えると、県内とはいえ静岡市からはかなり遠い、浜松あたりの出身ではないかと推測されます。
また、夕樹はお盆休みの時期、実家のお母さんが1本電話をかけてきたきり、帰省らしい帰省をしていません。こうなると故郷はごく近くにあるか、あるいは逆に帰省が大変なほど遠くという感じですね。

対してB面辰也のほうは、

列車での移動に長時間をかけて、日没後にようやく帰り着いた実家で一晩寝て、翌日には午前中早くに家を出て、また長時間かけて東京に戻ってくるという、ただそれだけ。結局、墓参をする時間もないままの慌ただしい帰省だった。学生時代からの決め事とはいえ、まったく無駄なことをしていると、その道中で僕はずっと考えていた。(B面209ページ4行目)

つまり、お盆の帰省は「学生時代からの決め事」になっていたわけで、帰省しなかったA面での行動と矛盾していることになります。

2−8)専攻

「鈴木さんたちって、数学科って言ってましたよね?いつもそんなふうに物事を計算して考えてるんですか?」(A面39ページ14行目)

という記述の後、何度も現れるように夕樹は静岡大学の理学部数学科に所属しています。ちなみにこれは、作者乾くるみ氏とまったく同じ出身大学・学部・学科です。

辰也も理系出身ですが、石丸家のクリスマスディナーに招かれたときの前項の会話の後すぐ、

「大学では何を専攻されていたんですか?」
「物理です。流体力学のほうを」(B面260ページ3行目)

というやりとりを交わします。数学科で流体力学を専攻? と首を傾げてしまいますね。そういえば、『北斗七星』の演劇を観に行ったときのくだりでも、

「あと松島さんの演じていた光子の振舞いとか、ボーアの理論の説明とか、ちゃんと物理学をわかっている人の書いた──」(B面193ページ6行目)

と、物理学に対して詳しいところを見せていましたね。ということで、辰也は同じ静岡大学の理学部でも、数学科ではなく、物理学科に属していたようです。

辰也が夕樹の1年先輩。同じ学部なのですから、一般教養や必修科目などで顔をあわせていた可能性は十分あります。体育で対戦していたことだって、あるかもしれませんね。

[追記]

と思っていたのですが、よく読んでみると、辰也のほうは「大学が静岡」「地方大学」と言っているだけなので、「静岡大学」とは限らないんですね。うっかりしてました。

海藤は名古屋大学を卒業しており、出身校のランクで言えば、四十二人いる新入社員の中ではズバ抜けていた。(B面133ページ5行目)

たしかに名古屋大学のほうが、静岡大学よりランクは高いようですが……微妙。「一流企業に内定していた」という記述や、子会社からの派遣とはいえ、働いている会社に東大や京大の社員がいるところから見て、辰也もそんなに低いレベルの大学ではなさそうです。

マユの誕生日に、空っぽの自分のアパートから静岡市内の彼女の家に向かう記述を見ても、静岡市からそう遠くないところに住んでいたと思われます。大学時代の一人暮らしで、大学から遠いところに住んでも意味がないので、静岡市近郊の大学のはず。静岡には大学はあまりないので、やっぱり、静岡大学が一番可能性高いですね。

東大や京大出身の社員と自分を比べるとき、「地方大学出身」という言い方をしているあたり、「同じ国立大」という意識があるように思います。

2−9)プレゼント
B面で「僕」ことたっくんは、石丸さんとの浮気を続けるうち、

三度目に彼女と寝た日、僕は財布をどこかに置き忘れるという大失態を犯してしまった。<中略>できれば財布だけは無事に帰ってきて欲しかった。何しろマユから誕生日のプレゼントとして貰ったものである。(B面244ページ9行目)

という失敗を犯します。これを読んだ私たちは、「ああそういえば」とばかりに

「はい。たっくんにプレゼント」
<中略>中から現れたのは──革製の財布とパスケースのセットだった。(A面128ページ9行目)

という記述を思い出します。

ですが、ちょっと待ってください。これはたしか誕生日プレゼントではなく、クリスマスプレゼントだったはず。もちろん、単に「僕」が思い違いをしている可能性もありますし(日常ではままあることです)、物語の空白期間である1〜5月くらいの間に「僕」が誕生日を迎え、もう一回マユが財布をプレゼントした可能性だってありますが、まあ、理屈で言ったら矛盾していますね。

2−10)電話
小さなネタですが、電話のエピソードについて気づいたことがあります。夕樹はあまり電話を多用するタイプではなく、マユにデートを申し込んだときに、

電話機がこれほど役に立つ道具と知ったのは、この時が初めてだった。(A面47ページ15行目)

などと独白しているのですが、B面冒頭ではいきなり、

僕が受話器を置く前に、彼女は電話を切っていた。掛けた側が先に切るのがマナーだと前に教えたはずなのに。(B面141ページ4行目)

とマユの電話マナーについてうんぬんしています。

また、A面でクリスマスイブの予約が取れた報告をマユにしたとき、

「じゃあ、イブの夜はいちおうちゃんとした格好でドレスアップして行かないとね」と彼女は弾んだ口調で言うと、その後に「本当にたっくんて凄い」と付け足して、電話を切った。(A面123ページ16行目)

とあります。もちろんこの時も夕樹から電話を掛けていますので、マユの行動は「マナー違反」なのですが、夕樹は特に気にした様子も見せません。

……マユによる夕樹の教育は大変に浸透していますが、辰也によるマユの教育はほとんど成果がなかったものと見えます。

2−11)運転歴
夕樹が運転免許をとったのは、1987年11月13日のこと。ですから、B面がA面の続きであるとすると、まだ物語中の大半では運転歴1年未満。若葉マークもとれない、バリバリの運転初心者です。

さて、そこでB面を見てみると、

今までにも三回ほど、静岡から東京まで高速を飛ばしたことはある。しかし過去の三回は常に同乗者がいたが、今は一人きりである。<中略>
首都高の都心環状線を運転するのは初めてだったが、そんなに戸惑うことはなかった。江戸島から六号線に入り、箱崎、両国と抜けて、向島のランプで一般道に下りる。明治通りに出るのに少し迷ったが、あとは一キロも行かないうちに駐車場に着く。(B面171ページ11行目)

とあります。これが7月11日の記述です。免許を取得して約8ヶ月、しかも卒業やら就職やらで忙しいこの時期に、三回も「静岡から東京まで高速を飛ばしたこと」がある、というのはちょっと多いですね。静岡〜東京は新幹線が便利ですので、用があるにしても静岡の人が車で東京へ出かけることは実際には少ないのです。

日本一分かりにくい道路、首都高の都心環状線を「初めてだったが、そんなに戸惑うことはな」く、スムースに乗りこなしているあたりも、初心者ドライバーとは思えません。

というわけで、おそらく辰也は夕樹より運転歴がずっと長いドライバーで、大学時代に東京を含めて、仲間と色々な場所に行ったのでしょう。福井にいた頃に18歳ですぐに免許をとったようなケースではないかと思います。一般に交通の不便な地方へ行くほど、免許取得の年齢は低くなるようですから。

余談ですが、免許取得翌日の初ドライブで、いきなりラブホテルに乗りつける夕樹のフロンティアスピリッツには脱帽。「駐車」はビギナーにとっての一大関門ですが、運転初日にまったく未知の場所でその試練に挑む彼の姿を想像すると、たしかに大きく成長したことが感じ取れます。

番外)就職先
他の方のレビューなどを読んでいると、「A面でたっくんが内定先を富士通と言っていたのに、B面で就職先企業が違ったのですぐおかしいと思った」という人がけっこういますが、これは伏線ではありません。B面冒頭に、
東京へ派遣。内定を貰っていた大企業を蹴ってまで、わざわざ静岡の会社を選んで入ったというのに……。僕はこっそり溜め息を吐く。(132ページ10行目)
という記述がちゃんとあります。ですから、論理的に矛盾していません。伏線ではなく、むしろミスリードですね。

私の好きな本


『光の帝国 〜常野物語〜』 恩田陸
超人的能力をもった「常野」の人々は、いったい何をなすために生まれてきたのか。
ノスタルジックなSFともいうべき、不思議な、不思議な世界観に引き込まれます。






【目次】
  序章  時系列データ
  第1章 時制のトリック
  第2章 すり替えのトリック
  第3章 交錯ポイントと心理の動き
  第4章 暗示と象徴
  第5章 「静岡ローカル小説」としての『イニシエーション・ラブ』
  第6章 おまけ


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posted by ゴンザ at 20:03 | 静岡 ☁ | Comment(13) | TrackBack(1) | 小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
読み返すといろいろ発見があります。
こんなのはどうでしょうか。
144ページ9行目
「マユも一度手伝いに顔を見せたが、あまりの部屋の汚さにげんなりして、すぐに帰っていった。」
一見すると引越しで部屋が散らかっている様にも読めますが、「汚さ」という表現にも違和感がありますし、散らかっているからといって帰るくらいなら「最初から来るな!」と言いたくなるところです。
また、わざわざこんな書き方をしているのは「部屋がこれほど汚いとは予想外だった」というニュアンスも含まれているのでしょうね。
これは「たっくん」の部屋でこれまでたびたび関係を重ねているはずのマユの反応としては極めて不自然であろうと思われます。
そもそもA面のたっくんはちょっとした掃除だけでマユを部屋に迎え入れてますし、彼女もすんなりそれを受け入れていることから少なくとも「汚さ」とは無縁であることがわかります。
こんなところにも伏線が張ってあるんですね。
Posted by sugar at 2005年03月09日 18:10
そうなんですよねえ。ここは私も迷ったところなんです。
うーん「汚い」かあ……「部屋が汚い」っていうのは、大きい意味では「散らかっている」も含まれるからなあ……でも引越し準備中にも関わらず閉口するってのは、純粋に「汚れている」んかなあ……?と。sugarさんとまったく同じです。

夕樹はまめな性格で、辰也は「ワイルド」な性格ということを示す部分と言えそうですね。
Posted by ゴンザ at 2005年03月11日 16:07
215ページ11行目の「ハードカバーの本の山」というのは、その先週の金曜に夕樹から借りた四冊の本ということのなるでしょうか。ちょっと気付いたのでコメントしたくなりました!
Posted by nokko at 2007年06月01日 12:58
どうも。
丁寧に解説されてて、補完するのに大変ありがたいです。細かいとこなんですが、気になった点を。

電話のマナーですが、夕樹が真面目な人間なんで、マナーに関してこだわる性格でもおかしくはない気がします。電話を頻繁に使うかとマナーにこだわるかは別物じゃないかな、と。クリスマスの予約のときは、浮かれててそんなマナーのことは思わず、仲が深まった物語の空白期間で教育をした可能性もありますよね。
もちろん、辰也のその記述が伏線だっていう点は
完全に同意です。

あと、煙草は、窓開けて吸って部屋に匂いつかない様にするとか、多少なら消臭スプレーとかでどうにでもなると思いますよ。

感想書いたら、またTBさせて頂きます。
Posted by moki at 2007年12月24日 01:05
面白く読ませていただきました。
元静大生です。
現在は辰也と同じく東京にいるのですが 笑
本屋で見つけて偶然買った本が静岡ローカル小説みたいでうれしかったのも事実です。

辰也の大学について触れている記事がありますが
イロイロ考えた結果、私も辰也は静大だとおもいます。
名古屋大学は確かに静大よりもランクは高いのですが、ずば抜けて、というほどではないよなぁ・・・と考えてしまったのですが
ほかに静岡市近辺にある大学で、該当する大学はないですよね。
県大も考えたのですが、理学部も物理を専門に学ぶ学部もないし
やっぱり静大で先輩ぽいですね。
理学部も小さいし数学と物理は共通の授業も多いのできっと二人は顔見知りではあったはず・・・
と考えるとおもしろいです。
Posted by こた at 2007年12月28日 02:19
えーん、オバカな私にもとっても解りやすすぎる解説♪ありがとうございます(-_-、)
私って本当に鈍感!
(ここはネタバレOKですよね)
最後の「辰也」は、美也子が呼び間違えたのかと思って、「何てつまんない小説!」と思っちゃってました・・・(-。−;)
面白い面白い!!今になれば、「なるほどっ」の連発です
また今日も読みふけっちゃいそうです
本当にありがとうございましたm(__)m
Posted by miz at 2008年05月05日 11:12
上のコメントの方に全く同感です。
私も、実は疑いもなく最後まで読んでしまい、結局ミステリー小説の意味が全く分からず、友人が面白いといっていた訳が全く理解できませんでした。
考えたあげく挫折し、ネタバレ解説を探していたところ、このページに出会いました(笑)
なるほどなるほど!
面白いですね!!!
ありがとうございました☆
Posted by たっくん at 2009年01月12日 17:20
1回目は「えっ・・・?」と全く理解出来ないまま読み終えてしまいましたっ(/_;)
私は中3なのですがとても国語が苦手で困っています。この本を選んだ理由もただ単にTSUTAYAで1位だったから、なんですけど。。。
選んで良かったです、もう1度読んでみます。
わかりやすい解説ありがとうございます。
Posted by MisaKi at 2009年05月17日 16:36

とてもわかりやすいご説明、ありがとうございます!

私は所々でつっかえる・・・
たとえば夕樹はおしゃれに対して興味があまりないはずなのに
就職などになった瞬間、途端に人にアドバイスするほどおしゃれさんになってたり、
他にも読書への価値観の変わり方
大学の専攻などあったのですが、
最後の解説でもしかして…と思い
ここにたどり着きました。

ほんとうにありがとうございます!
Posted by あおい at 2009年10月14日 21:44
P51に静岡市に住んで三年半になるって書いてますけどこれで後のP252に書いてある福井出身ってのに伏線張ってるんだなぁって見てたんですけど違うんですかね?

しかし自分はいつもの癖で最初に裏を読むのですが、今回も最初に再読のお供の「A面を聞いているときには、B面も一緒に回っているのだ。」
ってのを見てしまってあぁ〜あやってしまった・・・もぉ読むの辞めようかなって思ったんですが、
萎えた心のまま読んで見たら途中の伏線だらけでいろんな結末が考えられて最後には面白かったと思えました!
でも、頭がゴチャゴチャになったので2回目はまだ読んでません。。。

でも、ここの解説をみてスッキリしました!
ありがとうございました!
長文失礼しました。
Posted by くりゐかな at 2010年03月11日 11:47
やっと謎が解けました!ほんとにありがとうございました(^O^)
まさかマユがっ…(」゜□゜)」って驚いちゃいました(笑)

もう一度読んでみます♪
Posted by at 2010年09月16日 22:05
これを読んでやっと意味がわかりました、ありがとうございます。

2人の共通点を増やすことで浮気がバレにくくなる‥なんて怖すぎる発想ですよね!!
Posted by yuzu at 2011年01月09日 18:49
しばらく前の記事にコメントさせていただくのもはばかられましたが、ちょうど乾作品を読み返していたもので、気になりました。

僕がこの作品を読んだのも、かなり前のことですが、そのとき思ったことを一つ。

マユが恋人たちのあだ名を同じにする、ということで思い出したのは、明石家サンタで、明石家さんまさんが言っていたことです。さんまさんも何人かの女性と付き合っていたときに同じことをしていた、そして物語の中に出てくる「男女7人」はさんまさんが出演し、共演していた大竹しのぶさんと結婚した。

そのことも含め、叙述にこっているのかな?と思いました。
Posted by Y at 2014年08月06日 17:13
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