2012年02月15日

「はざま」に何かがある

最近、友人が言っていたことについて深く共感することがありました。

カメラマンの彼が作っているフリーペーパーについて、製作スタッフが「なんかこの写真の使い方がきもちわるい」と指摘をしました。それについての彼の返答は、ざっとまとめてしまうと「うん、それは分かっててやってることだからいいんだ」とのこと。

アーティストとしての彼の姿勢は、万人にすっと受け入れられるものを作るつもりはない、万人に受け入れられるものは、万人に受け入れてもらえないのとあまり変わらない。むしろ50人が絶賛し、50人がこき下ろすようなものの方が意味がある。「いいな」でも、「やだな」でも、心のどこかに引っかかって、立ち止まらせる力を持つものが「アート」であって、すーっと通り過ぎられてしまう作品を作ったら、それはアーティストとして大失敗なのだと。

そのやりとりを傍で聞いていた私は、一言だけ言いました。

「無視できないってことですもんね」

「そう! そういうこと!」彼はわが意を得たり、というように大きくうなずきました。

私はこうしてテキストを操ることで何かを伝えようとする、彼とはちがったアプローチの人間ですが、到達した姿勢が同じであることに、とても喜びを感じました。「無視される、無関心で通り過ぎられる作品を作ってしまうこと」。それはクリエーターとして屈辱以外のなにものでもありません。

「愛情の反対語は憎しみではない。無関心である」

これは一般にはマザー・テレサの名言として残っていますが、およそ行動する人間、創造する人間だれが言ってもおかしくない言葉です。

「嫌い」が「好き」になることはある。どちらも多大な関心を寄せているから。しかし「なんとも思われていない」のでは、どうにもならないのです。

作品にはどこかに人の心をひっかける「荒いささくれ」が無くてはいけないのです。

人の心を引くものはそれが正の方向であれ、負の方向であれ、「面白いもの」であると思います。そして面白いものは「人に心地よいもの」と「人を不快にさせるもの」の微妙なはざまにあると私は考えています。

一番分かりやすい「面白さ」はそのまま「笑い」です。笑いはどのように生まれるか。さまざまに議論が交わされていますが、良く言うのが「緊張と緩和」「ボケとツッコミ」などの二項対立です。私はここでは「ボケとツッコミ」を「非常識と常識」に言い換えて説明してみようと思います。

ボケとは何か。それは独特すぎて社会からは受け入れられない「非常識」な発想です。

ツッコミとは何か。ボケの非常識さを説明し「常識」に引き戻す社会的良心です。

ボケてツッコむという、漫才のスタイルは、いわば非常識と常識の間に張られたロープを渡る、精神の綱渡りの面白さなのです。

そしてさらに面白いのは、時として非常識なはずの「ボケ」が、常識であるはずの「ツッコミ」以上の説得力を持つことがあるところです。ボケ・ツッコミの流れの中で、私たちは実はそれほど明確に引かれているわけではない「常識と非常識のあいまいの領域」を行きつ戻りつするスリルに快感を得ているのだと思うのです。そして笑いの中に「新たな常識」を見出すこともできるのです。

最初から最後まで、常識を言っていたら、まったく面白くはない。かといって、あまりに非常識であれば、社会からの反動を食らう。ちょっと危ないギリギリを狙って常識の領域を揺るがす。その「揺るがし」によって、笑いは生まれるし、アートも生まれる。

いつだって面白いのは、ギリギリの線、なのです。


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posted by ゴンザ at 14:35 | 静岡 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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