2012年08月15日

料理に例える

多少なりともクリエイティブな仕事をしている身からすると、あだやおろそかで「批評家」になってはいけないと感じます。

文章や音楽、映像や演劇。何かを人に伝えようという「創造」が行われる場合、そこには多大な労力が費やされます。それは「創る身」にならないと絶対わからない、膨大なエネルギーの量とそして質です。

しかしそのエネルギーに対する敬意を持たずに、簡単に批評し、批判し、こき下ろす人のなんと多いことでしょうか。

「苦労と作品の出来は別」。それは分かっています。が、少なくとも「創る側」への敬意を持たない人には、批評をする資格がないと私は考えています。「こんな本なら自分にも書ける」。そんな言葉は絶対に口にしてはいけない。

この私なりの「原則」をどう表現したら、分かってもらえるかと自分なりに考えたのですが、やっぱり「料理」だな、という結論にたどり着きました。

「小説」のケースで言えば、「小説家」は「プロの料理人」です。「読者」は「食べる人」です。

料理人が、料理を作った。しかし食べたお客は「不味い」と思った。

原因はいろいろあるでしょう。

料理人が未熟だった。素材をよく吟味していなかった。料理の出し方の順序が悪かった。メニューとの違いがあった。料理人を中心とした店側の要因です。

お客の側にも要因が考えられます。嫌いな食材が使われていた。想像していた味とは違うものだった。好みに合わなかった。たまたま体調が悪かった。などなど。

さて、このとき食べたお客は、「こっちは金を払っているんだから」という理由で、出された料理をケチョンケチョンにけなしていいものでしょうか。そして「こんな料理なら俺にも出来る」といった言葉を吐いていいものでしょうか。

私は、それはやってはいけないことだと思います。

料理を作ることには、食べる側が思っている以上の技術や経験、工夫や労力が必要です。これなら自分にも作れそう、なんて思っても、いざキッチンに立ってみたら全く思い通りに行かず、愕然とするものです。簡単そうに見えるものでも、「作る」というのはそれだけ大変なことなのです。

料理を食べる人は、料理を作る人に対して、いつも一定の敬意を払わなければいけない。その上で、やはりこれは言わなければ、と考えるのであれば、自分の発言に責任を持って、美味しくなかった、と伝えるべきでしょう。簡単に「あーマズかった、サイテー。クズみたいな料理だった」なんて言ってはいけないと、私は考えます。そうした暴言を発するのであれば、自分がそうされてもかまわない、という覚悟を持つべきだと思うのです。

そしてもうひとつ。美味しかったときには、きちんと「美味しかった」と伝える。人というのはなかなか難しいもので「不満」は口にしても、「満足」は口に出さないところがあります。嫌なことは「伝えたがる」のに、いいことは「黙っている」。「不味かった」とは言うのに、「美味しかった」とは言わない。それでは料理人が浮かばれません。

「批評」とは、欠点を指摘することではなく、作り手に敬意を払いながら、極力客観的かつ冷静に自分なりの意見を述べることだと思います。褒めるべきところは、きちんと褒める。むしろ、欠点ではなく長所を見つけることにこそ、批評の真髄があると、私は考えます。




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posted by ゴンザ at 17:01 | 静岡 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 小論文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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