2012年10月31日

フェイスブックで知ったこと

私は仕事の関係もあって、インターネットの流行りものを利用する機会が多い。それこそインターネットはダイヤルアップの時代から利用しているし、このブログの開設は2005年。もちろんmixiにもアカウントはあるし、ツイッターにも顔を出している。

そして2012年現在、一番勢いがあると言われているツールは「フェイスブック」だろう。私も早々とアカウントだけは取り、何がなんだかよくわからないままちょこっと書いてみたり、いきなり大学のゼミの同期生が友達申請してきてびっくりしたり。結局ぜんぜん使いこなしていないながらも、ザッカーバーグさんにユーザーの1人としてカウントされている。

で、思ったのだが、フェイスブックはmixiやツイッターと何かが違う。ホームページ、掲示板、電子メール、メーリングリスト、ブログ、メッセンジャー、mixiなどを経てきたインターネットツール。それらは使い勝手の違いこそあれ、同じ進化の枝の中にあるように思えた。が、フェイスブックはその枝から生えてきた感じがしないのだ。


では、フェイスブックはどんなアプローチによって生まれ、どんな特性を持つのか、しばらく考えてみた。その結果、一番しっくりくるのは、従来のインターネットツールでは、「情報」が「主」で「人」が「従」だったのが、フェイスブックは「人」が「主」で「情報」が「従」である、という解釈である。

従来のインターネットツール、たとえば電子メールやブログ、ツイッター、mixiなどは、まずは情報を存在させ、その情報の魅力によって人が集まったり、反応したり、つながったりしていた。しかし、フェイスブックはまず「人」ありきなのだ。

フェイスブックはアカウントをとった後、何をしたらいいか、さっぱりわからない。こわごわと実名で登録し、出身校や趣味などを選んでしまうと「ようこそ!」ってなもんだが、「……で?」という感じで何ができるか、自分の何が外に見えているのか、まるでイメージできない。ブログの「記事を書く」「記事を公開する」「外からの見え方を確認する」という、電子出版のあり方に限りなく近い、アナログなわかりやすさはまったくない。「……今どうなってんの? どう見えてるの?」と不安になる。

そんな不安なままですごしていると、突然大学時代のゼミ生が「友達申請」をしてきてびっくりする。そうか。登録した自分の属性が公開されているから、「お、あいついる」と見つけて、声をかけてくるのか。

そして人とつながってみて、初めてなんとなくフェイスブックというものが見えてくる。ああ、これは自分の育ちや趣味、年代などの属性を、つながることによって認識させられるものなのだな、と。それは「他者」との関わりによってはじめて「自己」の存在を感じるのと似ている。そしてサイバー空間の中でフェイスブックの札をぶら下げてあちこちをさまようことは、今までのインターネットツールが外にある「情報」を見に行っていたのに対し、「情報」の中に放り込まれる気分になる。

こう書くと、フェイスブックでは「情報」が主のように感じられるかもしれないが、むしろ私は「情報」の中に放り込まれることで、「人」としての自分を強く意識せざるを得ない気がするのだ。情報との接触で自分の輪郭が見てくるような感覚だ。

ただ、それが心地いいかは、いまのところ「否」である。

人の「自己」「アイデンティティー」というものは、けっこうあやふやだし、場面場面で切り替わるし、また切り替えることでバランスが保たれる。そう私は考えている。現実の世界でも「家でのお父さん」「駅でのおじさん」「会社の課長」それぞれがまったく同じなんて人はいないだろう。人はペルソナ(仮面)の付け替えを意識的に、また無意識に行うことで心のバランスが保たれる。

インターネット上でも同様で、今までさまざまな「情報」主体のサービスにおいては、ユーザはいくつもの「ID」=アイデンティティーをつくり、そこでの自分を演じてきている。しかし、あまりに多くのサービスが乱立した結果、人々は自分のIDを管理しきれなくなり、捨てIDや捨てサービスがどんどん生まれた。

フェイスブックとは、これらのIDを一元化し、統合したことに最も特徴があり、最もビジネス的アドバンテージのある「IDサービス」であると私は思う。

しかし、統合されたIDは、仮面の付け替えを許してくれない。いくつものIDを切り替えながら演じ分ける積極的ユーザはもちろんいるが、そもそも私たちは仮面の付け替えを意識的にやっていることのほうが少ない。無意識にそれは切り替わるし、また切り替え損ねて失敗することも多い。だいたいIDの切り替えなんて、めんどくさくてやっていられないのである。自分が情報を見たり、発信したりするたびに、どのIDでやろうかを変えるなんて、ぜんぜん便利ではない。

そう考えると、私はフェイスブックに対し、ソーシャルネットワーク=社会的交流というその最も根源たるサービスよりも、より消極的な「公的ID」としての未来を見る。フェイスブックに近況をアップしたりしない。「いいね!」なんてクリックしない。書き込みもしない。ただただ現実世界における運転免許証のように、私が私であることを証明してくれるIDとパスワードの組み合わせとして機能し、それがなんらかの決済と結びついて各種のサービスを受けられるようになってくれればいい。

フェイスブックを積極的な社会活動のツールとして認識する人は多い。それはそれでいい。が、世の中には社会活動自体に、消極的であったり、きわめて受動的であったりする人のほうが多い。情報発信に気持ちだけは積極的であっても、語るにたるべき情報を持っている人は本当に少ない。

インターネットサービスを考えるときに、念頭に置かなければならないのは、世の中の大半の人は「受動的」だよということだと思う。受動的なフェイスブックのあり方を容認できたとき、フェイスブックはその真価を発揮できることだろう。



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posted by ゴンザ at 21:03 | 静岡 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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